オポジションに対抗するシスタースクエア、あるいはシスタースクエアに対抗するオポジションといった不和の根拠なき特性を、これ以上主張する必要があるだろうか?

 シスタースクエアの方法は、本質的に経験上の秩序を検分していくことであり、それぞれの陣地内で見つかったシスタースクエアを我々はひとつひとつパズルを解くように足す。
 
 オポジションの方はといえば(それがオーソドックスであれ、ヘテロドックスであれ)、両キングが占める2つのマスの一定の関係に規定されている。この一般的な法則はチェス盤のどの部分に位置するマス目にも公平にあてはまる。

 我々が打ち立てたのは、両キングの作る平衡関係であり、それは先験的で取るに足らない。

 単純にいえば、オポジションの概念をシスタースクエアにあてはめるのは、動詞を名詞として使うようなものである。
<In brief,one can use no more substitute the idea of opposition for that of sister squares than one can use a verb(to oppose) for a noun(similar mosaics).>

 かてて加えて、オポジション(オーソドックスでもヘテロドックスでも)を使って、またはシスタースクエアの占拠によって得られるのは引き分けでしかない。

 したがって、勝つためにはオポジションの打破をせねばならない。アドバンテージを戦術的に利用するための領域への侵入、あるいは位置の変化を一般化するのは困難である。
 
 ということで、我々が強調しておきたいのは、オポジション(オーソドックスでもヘテロドックスでも)もシスタースクエアもほぼ必ず必要ではあるが、勝利をもたらすには決して十分な状態ではないということである。


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<いとう註・これでデュシャン、ハルバーシュタットの奇妙な研究書は終わる。 
 途中、どうしても訳しきれない部分があり、何ヶ月もほったらかしておいたのだが、さすがに解決しそうもないので、今回は原文(英訳部分)を載せました。

 オポジションとシスタースクエアを区別し、なおかつ有効に使うというのが本書の趣旨でだったはずなのだが、それでも最後に言われるのは「得られるのは引き分けでしかない」、「勝利をもたらすには決して十分な状態ではない」という結論である。

 チェスにとって、それは異常な事態ではない。
 将棋に慣れた日本人にとってのみ、この肩すかしのような結末が奇怪に映る。

 しかし、そうだとしても、デュシャン特有の「無関心」に、こうしたチェスの“勝ち負けの他に引き分けが重要視される”感覚が関係しているように思われる。勝負は宙づりとなり、物語は永遠に休止し続けるのだ。そうした未決定を受け入れる態度は、デュシャンが作品、あるいは人生に対してとった姿勢とよく似ている。

 観客と作品内部がオポジションを取り続け、しかしそれを打破する手段を双方持ちそうもない『遺作』は、この「ドロー」の状態、あるいは観念をテーマ化したとも言えるかもしれない。勝負が決まらないまま、盤上には静かな緊張関係が続く。
 チェスの勝負でいえば、それは駆け引きの断絶となる。物語は強制的に断たれ、どちらが勝ったか決められないまま、ある意味では駒同士の力を保存して終わってしまう。
 あたかも一人の人間の死のように。

 ひとまず、これで僕の仕事は一段落した。
 このサイトが永遠に残るものとは考えていない。DRECOMブログがいつまでもあるわけでもなかろう。
 特に僕の「いとう註」はいつも直接ブログ画面に書き込まれたから、サイトが閉じてしまえば消えてしまう。
 しかしだからといって、わざわざ自分でプリントアウトなどして取っておく気もおきない。
 また考えるべきときが来たら考えればいい。盤面は常に変わらずある。
 
 ずいぶんと手間ひまかけて続けてきたデュシャン本の荒い訳だが、作業と同時に僕の中にも、ある種の無関心が生まれてきたようだ。

 ただ、『遺作』を考える必要に駆られた人がいれば、この益になるとも思えないチェス本が実は大きなヒントになるだろうことを信じて疑わない。

 日本のデュシャン研究は、数十年、この書物抜きに行われてきた。
 吟味なしに。>