55-9-0

55-9-0 ノート再開

 ホームページで続けていた「55ノート」は2001年に完全にストップしたはずだ。岡崎乾二郎氏の『ルネサンス 経験の条件』が7月に出版されているからである。まさにその出版記念イベントに観客として参加する途中、異様な勘が働き、氏を交えた鼎談の間に抜け出して、大急ぎで買ったのを覚えている。
 左右の問題、鏡像の問題、射影幾何学的な問題などなどを、岡崎氏はブルネレスキの作品を介して細かに分析していた。『批評空間』に連載されていたので、同時期に小説を連載していた僕は読んでいなければならなかったし、読んでいると思われながら得々とブルネレスキについて書き迷っていたわけで、自分が恥ずかしくなった。そもそも、思考のレベルがまるで違っていた。
 それからというもの、「55ノート」を読み返すこと自体出来なくなった。今もそれは変わらない。本誌に今回の『マルセル・デュシャンと20世紀美術』の原稿を依頼された僕は、まず「55ノート」を他人にカットアップしてもらって当該字数を埋める以外ないと返答した。自分がデュシャンを語る以上、「55ノート」的な問題意識を前提とせざるを得ない。しかし、それを改めてたどり、要約して書くことが僕には出来ない。
 だがしかし、実際に展覧会を観に行った僕を待っていた初めのデュシャン作品は、なんと『チェス・プレーヤーの肖像』だった。絵の中のチェス盤にはおそらくキングとポーンだけがあり、左手のプレーヤーはポーンを持っている。のちにハルバーシュタットとの共著『オポジションとシスタースクエアは調停される』(1932)で扱われるテーマ、「ポーン・エンディング」をデュシャンは1911年の絵画ですでに前景化している。
 その他にもチェスをテーマとする作品がいくつも展示されていた。大学時代に観たデュシャン展では、それほどまでチェスに焦点を当てていなかったように思う。
 それでも、僕は無関心を基本態度として展覧会場を回った。デュシャンが視覚を遠ざける作品を提出している以上、観る側にもそれは要求される。途中、数秒だけ『パリの空気』の物質的な美しさに心を奪われ、『グリーン・ボックス』を前にするとガラスを叩き割って所有したい欲望に駆られたが、それ以外にはおおむね基本態度を貫くことが出来た。
 何も考えない。考えるなら会場を出てからにする。こうした無関心によって僕はデュシャンの脳と直結しようとするような、半ば目を閉じて瞑想しているような状態を探り続けたものである。にもかかわらず、僕の中には大きな刺激が継続して与えられていた。
 語り始めれば長くなる。そして答えはない。
 だからこそ、デュシャンの子供たちもまた、その状態に呼応して作品を提出している。くわしくはデュシャン展に出かけて、その脳で刺激の数々を受け止めていただくしかない。
僕はようやく「55ノート」の再開を心に決めた。考え続けることがデュシャンを前にした者の、あり得べきただひとつの行為であろうから。まず、『オポジションとシスタースクエアは調停される』を翻訳し始めようと思う。同時にW・M・アイヴァンスの『視野の合理化の上で』を〈遺作〉解読の鍵として再提示していきたい。
 以上が貧しい論考「55ノート」再開の宣言となった。終盤戦は本稿によって始まる。

『美術手帖』と、今回のデュシャン展のキュレーター平芳氏に大きな感謝をこめて。

いとうせいこう


<この文章は『美術手帖』2005年一月号、『マルセル・デュシャンとの再会』に掲載されたものです。今回、『美術手帖』の御協力により、ブログに再掲載させていただきました。なお、その際タイトルを「55-9-1」から「55-9-0」に改め、55ノート再開宣言とさせていただいたことを御報告申し上げます>

55-9-1

55-9-1
『オポジションとシスタースクエアは調停される、デュシャンとハルバーシュタットによって』

 P1(原書ノンブル、以下同)
 好奇心が、我々をある問題の解明へと向かわせたのである。その問題はこの20年間というもの、チェス文献に後味の悪い論文を定期的に送り出させてきた。
 それは「オポジションあるいは<シスタースクエア>の問題」と呼ばれている。
 我々は簡略化して、「オポジションと<シスタースクエア>の問題」とする。
 この問題についての定義上の論争を数多く読むと、印刷の工夫の誤りが混乱を生んでいることがわかる。
 そこで我々は、テキスト理解を助けるために、図版の数々を丁寧すぎるくらい多く載せる必要があると考えた。この見た目への配慮は、問題の秘義的な側面や、論争の第一の原因をはぎとってもくれることだろう。
 引用した書誌学的な文献の中でも、我々は特に「La Nouvelle Regence」(パリ、1860~61年など)と、Abbe. DurandとJean. Preti 共著の「チェス終盤戦の論理的戦略」(パリ、1872年)を挙げておく。

P2
 残念なことに、Durand の数々の発見を知っているのは限られたファンだけである。多くの点で、その発見は今日のエンドゲームの科学につながっており、その基本原則はこのパイオニアに負っているのだ。彼は早くも19世紀半ばには、“オポジション幾何学”の基礎を確立していた。彼が唱えた<有効なスクエア><境界のスクエア>は、本書で行う概略的分類の基礎となっている。
 Lasker - Reichhelm 戦の局面が出現した状況の詳細は不明だが、1900年頃のことである。少なくとも1901年に遡れば、その局面の論理的重要性を J. Bergerが強調しており、そのことに我々は恩恵を受けている。彼は著書「エンドゲームの法則と実践」や数多くの雑誌で執拗に追求を続けており、今日に至ってもなお決着からはほど遠い。
 1908年6月、ミュンヘン大学のチェスクラブにおいて、D. Przepiorka が「数学的方法の実戦への応用」と題した講演を行ってエンドゲームへの応用を示し、Lasker - Reichhelm 戦の局面をようやくを分析してみせた。幾つかのスクエア間の照応を論理的に証明した後、彼はオポジションをシスタースクエア理論の特殊な例と結論づけている。
 ほぼ同時期、S. タラッシュ博士はPrzepiorka の考え方を統合し直しながら、ドイツで複数回講演を行い 、この問題を取り扱っている。

P3
 C. E. C. Tattersall は「エンドゲーム1000題」(ブリティッシュ・チェス・マガジン編、1910)の中で、ロコック・ポジションと Lasker - Reichhelm 戦の局面について、シスタースクエア理論による解明を印刷化した(シスタースクエアという綴りがある)。
 しかしながら、1928年12月に「レシキエ」誌で、元U. A. A. R. のアマチュア・プレイヤーが紹介した Civis Bononiae 文書(1454)を忘れてはならない。同文書はシスタースクエアを使った最も古い例だと思われる。文字はあるマス目に印刷され、ラテン語のテキストは両キングの決定的な位置をその綴りによって説明しているのだ。
  J. Drtina(「Casopis Ceskych Sach」,1907)と F r. Dedrle は、オポジションの問題に関する新しい幾何学的要素を発見している。Durand の原理を(おそらく彼らはそれを知らぬまま)前方へと進めたわけだ。本書では第一章で、その<プリンシパル・ライン>の重要性について紹介する。
 最後になったが、我々は特にある著作に勇気づけられてきた。Ing. Rinaldo. Bianchetti の「ポーンゲーム学説への寄与 Contributo alla Teoria dei Finali di Soli Pedoni」(フィレンツェ,1925)である。
 本書は彼の著作に収められた2つの終盤問題から、“ヘテロドックス・オポジション”の新しい型を見出すことになる。


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シスタースクエア
原 註:cases conjuguees(仏語。結合されたマス目の意/訳者註:conjuguees の最初のeにアンサンテギュが付く)の英訳であり,H. D'O. Bernard の提案を受けた。チェス・プロブレム界で使われる用語の幾つか(モデル・メイトなど)は Bernard の創案。

Regence
訳者註:最初のeにアンサンテギュが付く。

J. Preti
訳者註:eにアンサンテギュが付く。

スクエア
訳者註:マス目のこと。

<この『緒言』部分からP36までは、今は連絡の途絶えてしまったO君が(結局、僕は一度も彼と会わないままでいる)、自分のHP上で翻訳してくれていた日本文に手を加える形で掲載される>

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